"西域の流砂に埋もれる者達を顕せる風の如く"
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第7回 角燈籠から人形燈籠へ
書物に残されたねぷたのもっとも古い記述は、弘前藩庁『御国日記』の享保7年(1722)のものである。
この時の燈籠の形状は明らかではないが、ねぷた最古の図版資料『奥民図彙』(1788)に描かれたような、角燈籠であったと考えられる。
その前はと言うと、おそらく、たいまつなどの火流しであったと推測されている。
現在でも黒石市の大河原では火流しの行事が行われているが、津軽藩の資料にも弘前市の石川で火流しが行われた記録が残っている。
では、人形ねぷたが作られるようになった時代はいつか?
こちらも津軽藩の資料を見てみると、文政年間(1818~1829)の頃の資料に初めてその名が登場する。
木材のみで作られていた角燈籠から、新たに竹を材料に用い自在な形を作り上げていくようになったのである。
『奥民図彙』にも丸みを帯びた燈籠らしきものが描かれており、その頃から、当時の「ねぷた馬鹿」たちのさまざま試行錯誤の繰り返しによって、人形ねぷた制作の技術が育まれていったのであろう。
人形ねぷたを作る側もたいしたものだと思うが、その費用を出す側もたいしたものである。
角燈籠と人形ねぷたでは、木材や竹材はもちろん、特に和紙の使用量は、数倍以上にもなろう。
この金銭面を支えたのが、当時の商人たちであった。
この商人たちの社会貢献が無ければ、人形ねぷたは存在しえなかったのである。
この燈籠の骨組みに竹材を用いるアイデアは、江戸時代に民間に普及したと言われている、ちょうちんにヒントを得たものであろう。
しかし、ちょうちんの円筒状の単純な竹の骨組から、人形ねぷたのような複雑な立体造形を作り出した、先人たちはなんと偉大であろうか。
彼らの努力によって、ねぷたは角燈籠という画一的な【単なる燈籠】から、千差万別な個性をもった【造形美術】へと進化したのである。
一年に一度の祭りに、何らかのものを制作する祭りは、他の地方にも多いが、そんな祭りの中でも、ねぷたの芸術性は群を抜いていると私は思うのだ。
次回は、明治の頃の扇ねぷたの考案について述べていこう。
参考文献 藤田元太郎 著作『ねぶたの歴史』
(毎週水曜日むつ新報に掲載中)