ARTIMEDIA ねぷたのウソ・ホント 忍者ブログ
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第16回 最終章



「ねぷたのウソ・ホント」と題して書かせて頂いたこの連載も今回が最終回となる。ねぷたの起源や成り立ちのウソとホントを紙面にて紹介していくことで、「ねぷた」という津軽独自の文化をよりよく知っていただければという思いでここまで執筆をしてきた。

自 他ともに認める「ねぷた馬鹿」であろう私が、先達の研究によって明らかになったねぷたの歴史を通して、現代のねぷたに投げかけたいのは、「ねぷたはもっと 自由なものではなかっただろうか。」という問いである。
今の時代にねぷたの「伝統」として認識されている事柄は、実は近代の明治の頃の「流行」であるもの が多い。
武者絵の流行や扇ねぷたの考案などがその例だ。
この時代に生じた変化が、ねぷたの変えられざる伝統として、現在まで君臨している。
こういった変化 は、一年に一度ねぷたが作られるというサイクルの中で、ねぷたを作る者が起こし、それを見る社会が認めた、「進化」とも言える。

ねぷたはこのような進化を 幾度も繰り返し、今のスタイルがあるのだ。
しかし、現代という時代は、ねぷたの題材や形状を、変えられざる伝統として、その進化を許さない。
進化の歩みを 止められ、創造性を奪われたねぷたは、「作る」喜びを失いつつあるように見える。

(多くの人がねぷたは「買う」ものだと考えてはいないだろうか。)

私は、 幼少の頃から、ねぷたの、特に人形ねぷたの制作に関わってきた。
その一連の作業をよくよく考えてみると、確かに難しい作業もあるが、紙貼りや色付け、電気 の配線など、やり方さえ一度覚えれば誰にでもできる作業が多いと感じる。私が「ねぷたは皆で作るもの」と考えるのは、連綿と受け継がれてきたねぷた制作の 技法がそれを証明していると思うからだ。

殺 伐とした事件が当たり前のように発生してしまう現代という時代は、地域社会の力が衰弱してしまった時代ではないかと感じる。
ねぷたを、観光資源として捉え るばかりではなく、文化資源としてその意義役割をしっかりと考えなければならない。
そんな時期をねぷたは迎えているのではないだろうかと、私は思うのだ。
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第15回 春ねぷた




9 年ほど前から、弘前桜祭りに便乗して、GWの時期に弘前で「春ねぷた」なるものが行われている。
おそらくは、桜祭りに集まった観光客にねぷたをアピールし ようと言う商業的な目的から始まったものであろうかと思う。

けれども、このアピールが本当に功を奏しているのかは、疑問が残る気がする。
そもそも、年に一 度の夏祭りを、春にもやってしまって良いものだろうか。
ねぷたは、年に一度の特別な非日常の時間であるから意味があると私は思うのだが。
こ のような弘前の動きには、やはり現在の主流が扇ねぷたであることが、関係していると思う。

以前にも述べたが、人形ねぷたに比べれば扇ねぷたは作業量が少な い。
このことが一年に何度もねぷた祭りを行うことを可能にしていると言える。
けれど、無節操に観光という目的だけでねぷた祭りを行うことには私はやはり賛 同できない。

私 は、この連載で何度か、「弘前の伝統は扇ねぷたではない」ということを述べてきた。
扇ねぷたは現在の弘前の主流であって、そればかりが伝統ではないと考え るからだ。私が、なぜこのように今の時流に抗おうとするのか。
それはねぷたの文化性を考えたとき、扇ねぷただけでは片手落ちになってしまうと思うからだ。
扇ねぷたのメリットである「作業量が少ない」は、扇ねぷたの弱点でもあると思うのだ。

私は、ねぷた祭りの最大の特徴は「作る」ということにあると考えてい る。
そこから発生する意義役割が、現在の社会に必要だと考えている。
このまま、弘前ねぷたが扇ねぷたに傾倒し続け、「作る」という部分が減少していくと、 ねぷたの文化性は消滅してしまうのではないかと危惧している。

(扇ねぷたばかりが、ねぷたの文化性を消滅させる原因であると考えているわけではないが。)

もちろん、「春ねぷた」に関る方々のご尽力を何も考えないわけではないのだが、先のように考えている私の目には、「春ねぷた」は、ねぷたの文化性の減衰を象徴しているように映り、一抹の不安を覚えずにはいられない。
第14回 八角ねぷた



弘 前ねぷた祭りで、三年ほど前から物議をかもしているねぷたがある。
それは「八角ねぷた」と呼ばれる、ねぷたの土台部分が通常の四面ではなく、倍の八面ある 八角形の土台をもつ人形ねぷただ。
このねぷた、弘前ねぷた祭り参加団体の「必殺ねぷた人」によって作られたものだが、何を隠そう同団体の代表を務めるこの 私がデザインしたものである。
今回は、私事で恐縮だが、この「八角ねぷた」について書こうと思う。

私 は、造形美として四角よりも八角の方が良いからとかいう動機で、あれを考案したわけではない。
別に、六角でも十角でも良かった。

私は、今の市役所が作った 規定の範囲内で、何か新しいねぷたを考案したかったのだ。
ねぷたは人の手によって作られるものだ。
人形ねぷた、扇ねぷた共に造形美術としての側面を持って いる。
であるならば、創造性を奪われては良いものは作れない。
毎年作られるねぷたに何か新しい試みをしようとするのは、自然のことではなかろうかと思うの だ。

け れども、当然このねぷたに、「伝統」という壁が立ちはだかった。
「伝統的ではない」という理由から、「ねぷた」ではなく「前燈籠」という地位しか与えられ なかった。
けれど、もし、ねぷたにおける「伝統」が、ねぷたの形状にあったならば、人形ねぷたの出現や扇ねぷたの考案といった新しい動きが許されるはずも なく、角燈籠から進化することなんてなかったであろう。

私は、ねぷたにおける「伝統」は、形ではなく、ねぷたに関わる人間の心にあると思うのだ。
毎年、作 られては壊されるというサイクルの中で、豊かな創造性を持った先達の作り手と、それを支持した社会が、今のねぷた祭りを構築してきたのではなかっただろう か。
私はその問いを投げかけるために、「八角ねぷた」を考案し、祭りに参加している。

ところで、今年の弘前ねぷた祭りには、一つ嬉しい動きがあった。
奈良美智さんの版権が弘前ねぷたに限り開放され、彼のポップな現代アートを題材にした燈籠に、「前ねぷた」の地位が認められたのだ。
この動き、扇動的ではあったが、私は賛同できた。


第13回 今に残る眠り流しの伝統


今 年もねぷた祭りが終わり、それぞれのねぷた団体では、ねぷたの解体と後片付けに追われていることであろう。
ねぷた祭りは、眠り流しと言う習慣の流れを汲む 祭りであることは、前にも述べたけれど、眠り流しで、祓った穢れをのせて川に流されていた何らかのものが、ねぷたの山車の原形であると考えられている。
昭 和の中頃までは、ねぷたを川に流すという習慣が残っていたが、今ではほとんど見られなくなってしまった。
流されなくなったねぷたは解体されることになった わけだけれども、どちらもねぷたを無くしてしまうわけだから、眠り流しの習慣の「流す」という意味は残っていると私は思うのだ。
無 くするためには、それを作らなければならない。この「作る」ことと「壊す」ことこそが、眠り流しから続くねぷた祭りの重要な要素ではないかと思う。

県外の 人にねぷた祭りの話をすると、「終わった後にあの巨大で美しいねぷたを壊してしまうのか」と驚かれる。
外の人から見ればせっかく作ったものを壊してしまう のはもったいないと考えるのが普通なのだろう。

けれど、ねぷたは当たり前のように毎年壊され、また翌年作られる。
このサイクルは、二つの恩恵を私たちに与 えてくれていると思う。
一つは、ねぷたの技法の進化を促していること。
一年に一度、各団体で少なくとも一台作られるのだから、現在までに膨大な数のねぷた と呼ばれる山車が作られてきたわけで、その分ねぷたは進化してきたわけだ。

もう一つは、ねぷたによって形成されるコミュニティの結びつきを強くしていると いうこと。
ねぷた祭りは「作る」と言うプロセスを必ず含んでいるわけで、この「作る」という時間を共有できることが、ねぷたという祭りの最大の利点ではな いかと思うのだ。
眠り流しにおいて、「流す」ことは祭りのクライマックスであった。

現在の、ねぷたを壊すという作業は、後片付けの一環のように思われがちだが、また翌年、ねぷたを作るための最初の作業と考えれば、面倒な作業にも身が入るのではないだろうか。
第12回 合同運行



今日は八月二日。
いよいよ各地のねぷた祭りが始まった。
弘前市で言えば審査運行の二日目だ。
この審査運行は一日と二日に行われるが、ねぷた団体はそのどちらかにしか参加できないことになっている。
そして、三日から七日までは自由に参加できることになっていたはずだった。

しかし、今年は少し事情が違うようだ。

近年、弘前ねぷた祭りは、市町村合併の影響などもあり、ねぷた祭りへの参加団体が増加傾向にある。
その状況下にあって、渋い顔をするのが道路の通行止め規制を取り仕切る弘前警察署だ。

参加台数が増えればそれだけ運行時間が長くなる。
夜十時までと決められた合同運行の時間が守られないとご立腹なのだ。
一方の参加団体からすれば、手間暇かけて作ったねぷたの本番で、時間遵守のためにと駆け足運行させられるというのは、ねぷた馬鹿にはあまり好ましいことではない。

この問題、双方に一通りの言い分があるとみえる。

そこを何とか調整するのが、主催者である弘前市役所の役目だ。
今年の祭りに先立って行われた弘前ねぷたまつり全体会議では、参加自由の運行日である三日と五日に参加希望がかなり偏ってしまい、運行終了時間が夜十時からかなり遅れてしまうという見通しから、市役所側から参加団体へ運行希望日の変更ができないかという提案が出された。

三日はいくつかの団体が変更を申し出たが、五日は土曜日と言うこともあり、変更を申し出る団体は無かった。
市役所側は、審査運行の際の一日と二日の振り分けに行ってきた伝家の宝刀である抽選という選択肢を行使するかと思われたが、踏みとどまり、今年は各団体への迅速な運行の呼びかけと運行開始時間の繰上げで対処することになった。

本来、主催者、参加者、関係者にとって喜ぶべき参加団体の増加という状況が、このような問題を引き起こすとはなんとも皮肉なことと言える。

合同運行は昔から行われていたものではなく、これも近代の産物だ。
昔は各自町内などを自由に回っていたものが、その後統合され同じルートを回る合同運行という形態が生まれたわけだ。
けれど、ここにきて弘前は更なる新しい運行の形態を考える必要が出てきたようである。
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