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第11回 喧嘩ねぷた

今回は、書物の記録にねぷたが登場した江戸時代中期頃から、昭和の初めまで続いた喧嘩ねぷたについて述べたいと思う。

喧嘩ねぷたとは、その名の通り、ねぷた運行に伴い生じる喧嘩のことであるけれど、最初の頃は道で正面から出くわした二台のねぷたが互いに道を譲れと小競り合いをする程度だったが、次第に激化し、明治の頃には町道場間の抗争にまで発展した。

この喧嘩ねぷたの習慣はねぷた祭りに二つの変化をもたらしたと私は考えている。
一つは、意義の変化である。
本来眠り流しを起源にもつねぷた祭りの意義は、「穢れ祓い(けがればらい)」あった。
それが喧嘩ねぷたの習慣によって、祭りの意は、特に武士階級の「うっぷん晴らし」へと変化したのだ。

けれども、「うっぷん晴らし」と「穢れ祓い」、この両者はまったく異なるとは言えないと思う。
うっぷん晴らしを現代の言葉で言い直すと、おそらく「ストレス発散」となるだう。
現代の医学ではストレスが体に多大な悪影響を及ぼすことがわかっている。
古代の眠り流しで祓われた穢れもストレスと同様に身体に悪害をもたらすものと考えられていたはずだ。
そう考えるとこの変化は許容できる範囲内の変化ではないだろうか。
もちろん喧嘩ねぷたの暴力的抗争に賛同するわけではないけれど。

そして、もう一つが、ねぷたで作られる題材の変化である。
現代では、全般的に、軍神や武将の退治や戦といった勇ましい題材が多いけれど、江戸時代の後期までは、恵比寿や米俵そして千両箱といった縁起物が題材にされることの方が多かったのである。
それが江戸末期から明治の頃の、喧嘩ねぷたの激化と全国的な武者絵の流行を背に、勇壮な題材が多く作られるようになり、現代に至っている。
この戦が求められた時代の題材の変化は自然のことであり、非難する気は無い。

けれど、戦争を求める人よりも平和を求める人が多いであろう今の時代では、多少の
違和感を覚える感じがするのは私だけだろうか。
まして、それが古くからの伝統ではなく、この百数十年の動きなのだから、なおさらそう感じてしまうのだ。    
  
   参考文献 藤田元太郎 著作『ねぶたの歴史
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第10回 弘高ねぷた


今回は、歴史や技法から少しはなれて、県立弘前高校が学園祭の一環行事として毎年七月中旬に制作運行している通称「弘高ねぷた」のことを書きたいと思う。
弘高ねぷたの歴史は随分古く、五十年以上の歴史を持つ。
初期の頃は扇ねぷたでの出陣だったらしいが、その後、人形ねぷたに変化し、現在でも人形ねぷたが制作されている。
(弘前の伝統が扇ねぷたばかりではないことは以前にも述べた。)
弘前高校のこの変化は、弘前市の人形ねぷたの減少と扇ねぷたの増加という時代の流れとは、まったく逆の動きと言える。

なぜ弘前高校では人形ねぷたを制作するようになったのか。
それは、前回で述べた人形ねぷたの制作作業の特徴が関係していると思う。
彼らの制作意欲が、人形ねぷた制作の膨大な作業量の多さを上回っているのだろう。現在、弘前高校では、二週間足らずで、一クラス一つの人形ねぷたを制作している。一クラス四十人余りの手が、夢中になってねぷたを作っているのだ。
私は、「どこのねぷた祭りが一番好きですか?」と聞かれると、必ず「弘高ねぷた」と答える。
弘前ねぷた祭りよりも、青森ねぶた祭りよりも、弘高ねぷたが一番好きなのだ。
それには理由がある。
彼らは何事にもとらわれる事の無い自由な発想を持ち、それを人形ねぷたと言う形にしているからだ。
それが素晴らしい。
彼らは、現代の祭りが抱えてしまった様々な足かせに自由を奪われるということがほとんど無い。
その自由奔放さは制作だけではなく運行においても同様である。
彼らに弘前の常識なんてものは通用しない。
「ヤーヤードー」とともに彼らは「ラッセラー」の掛け声をも用いて飛び跳ねる。
そのリズムを先導しているのが、なんと「サンバホイスッル」という二つの音を出せる南米カーニバルで用いられる笛なのだ。
全てのクラスがこの笛を持ち、しかも弘前高校オリジナルの節まであるのだ。
この斬新で創造性溢れる彼らのねぷたが私はどのねぷた祭りよりも一番好きなのだ。

今年の運行は今日の六時半から。
今年も「ねぷた馬鹿」の卵たちの熱狂振りを見に街に繰り出そうと思う。

次回は再び歴史に戻って、かつての喧嘩ねぷたという習慣について述べたいと思う。


第9回 人形ねぷたと扇ねぷたの違い


人形ねぷたと扇ねぷたの違いとは、もちろん形状は違うわけだが、前回までに述べたように、その歴史も違う。そして、今回述べていきたいのは、制作作業の違いである。

まずは人形ねぷた。
その制作は何と言っても、作業量が桁違いに多い。
少なくとも一ヶ月以上は、手の込んだ作品ならば数ヶ月はかかってしまう。特に手間のかかるのが、紙貼りの作業である。
針金や竹で組まれた骨組に一マスずつ和紙を貼っていくわけだが、そのマスの数は一体の人形ねぷたで軽く千マスは超える。また、この骨組を組むのもなかなか大変な作業だ。
さらには、内部に設置する電球は四、五百個、土台に貼られる絵の枚数は二百五十枚以上と、すべてが桁外れで、とても手間と時間がかかる。
けれども、骨組を作る作業以外は、どれも難しいものでは無く、器用な子なら中学生にもなれば、立派に作業に参加できる。

人形ねぷたは「手間がかかる」と言われることが多いけれど、違う言い方をすれば、「様々な世代のたくさんの人間が作業に参加できるねぷた」とも言えると思う。

一方の扇ねぷたは作業量は人形ねぷたに比べると少ないが、あの巨大な鏡絵と呼
ばれる武者絵を描くには、相当な技術力を必要とする。
相当に日本画の技術を持った人間でも、あのサイズで描くのは容易ではないと思う。画用紙ほどの大きさの下絵を拡大して描く方法もあるようだけれど、それでもあの大きさで勢いがある美しい墨線を描くのは、至難の技であろう。

こうして見ると、扇ねぷたは熟練した技のねぷたと言えるだろう。

このように、双方を比べてみると、作業量や技術力にいろんな違いがあると私は思うのだ。
ちなみに、現在の弘前ねぷた祭りの両者の割合は、人形ねぷたが1、扇ねぷたが9となっている。
その膨大な手間は大変だが、人形ねぷたを手がける私としてはもう少し人形ねぷたが増えてほしいと思う。
作る喜びとできた達成感をみんなで分かち合える人形ねぷたは、いろいろな意味で現代社会が求めている役割を持っていると、私は思うのである。

              参考文献 藤田元太郎 著作『ねぶたの歴史』


第8回 扇ねぷたの考案

第4回でも書いたが、扇ねぷたが考案された背景には、城下町弘前の経済状況の困窮があったと言われている。
ねぷたのスポンサーになってきた商人が、従来の人形ねぷたを制作するだけの費用をまかなうことが難しくなってきた状況で、新しいねぷたのスタイルが必要となったのである。

この時代の「ねぷた馬鹿」に課せられた問題は、「安く、手間がかからず、なおかつ美しいねぷたを作る。」という非常に難しいものであったと考えられる。
材料費と手間を減らすには、人形ねぷた制作で最も大変な紙貼りの作業を減らすしかない。
そうなれば、立体的な人形を作るのは無理だ。平面的な絵を描くしかない。
けれども、ただ四角形に書いたのでは、造形美とは言えない角燈籠になってしまう。そんな困難な状況に悩む「ねぷた馬鹿」の傍らには、人形ねぷたの材料の木材と竹材が転がっていたであろう。

この二つの材料で作ることができる角燈籠ではない、絵が貼れる平面をもって構成
される立体とは、「これ如何に?」悩みに悩んだ末にひらめいた。
竹材で曲線を作り弧にして、木材で直線の弦を作り合わせれば、「扇形だ!」こんな風にして扇ねぷたは考案されたのではないだろうか。
あくまでも、ねぷたの作り手としての私の想像にすぎないが。
とにもかくにも、弘前で新たに考案された扇ねぷたは、瞬く間に弘前の主流となった。
それだけ新しいスタイルが渇望されていたのだろう。
また、人形ねぷたに勝るとも劣らない造形美を、扇ねぷたが持ち合わせていたこともその要因であっただろう。

前回から2回に分けて、ねぷたの形状の移り変わりを述べてきた。
簡単に言えば、角燈籠から人形ねぷたに進化し、その後、扇ねぷたが考案されたわけだけれども、こうして見てみると、新奇を好むイメージが強い青森ねぶたが、より伝統的な人形ねぷたというスタイルを貫き、一方で、保守的なイメージが強い弘前ねぷたが、より新しい扇ねぷたを主流にしているという意外な現状が存在しているのだ。次回は、人形ねぷたと扇ねぷたの違いを様々に述べていこうと思う。            

     参考文献 藤田元太郎 著作『ねぶたの歴史』


第7回 角燈籠から人形燈籠へ


書物に残されたねぷたのもっとも古い記述は、弘前藩庁『御国日記』の享保7年(1722)のものである。
この時の燈籠の形状は明らかではないが、ねぷた最古の図版資料『奥民図彙』(1788)に描かれたような、角燈籠であったと考えられる。
その前はと言うと、おそらく、たいまつなどの火流しであったと推測されている。
現在でも黒石市の大河原では火流しの行事が行われているが、津軽藩の資料にも弘前市の石川で火流しが行われた記録が残っている。

では、人形ねぷたが作られるようになった時代はいつか?
こちらも津軽藩の資料を見てみると、文政年間(1818~1829)の頃の資料に初めてその名が登場する。
木材のみで作られていた角燈籠から、新たに竹を材料に用い自在な形を作り上げていくようになったのである。
『奥民図彙』にも丸みを帯びた燈籠らしきものが描かれており、その頃から、当時の「ねぷた馬鹿」たちのさまざま試行錯誤の繰り返しによって、人形ねぷた制作の技術が育まれていったのであろう。

人形ねぷたを作る側もたいしたものだと思うが、その費用を出す側もたいしたものである。
角燈籠と人形ねぷたでは、木材や竹材はもちろん、特に和紙の使用量は、数倍以上にもなろう。
この金銭面を支えたのが、当時の商人たちであった。
この商人たちの社会貢献が無ければ、人形ねぷたは存在しえなかったのである。

この燈籠の骨組みに竹材を用いるアイデアは、江戸時代に民間に普及したと言われている、ちょうちんにヒントを得たものであろう。
しかし、ちょうちんの円筒状の単純な竹の骨組から、人形ねぷたのような複雑な立体造形を作り出した、先人たちはなんと偉大であろうか。

彼らの努力によって、ねぷたは角燈籠という画一的な【単なる燈籠】から、千差万別な個性をもった【造形美術】へと進化したのである。
一年に一度の祭りに、何らかのものを制作する祭りは、他の地方にも多いが、そんな祭りの中でも、ねぷたの芸術性は群を抜いていると私は思うのだ。

次回は、明治の頃の扇ねぷたの考案について述べていこう。

     参考文献 藤田元太郎 著作『ねぶたの歴史』
          
         (毎週水曜日むつ新報に掲載中)
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