"西域の流砂に埋もれる者達を顕せる風の如く"
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第8回 扇ねぷたの考案
第4回でも書いたが、扇ねぷたが考案された背景には、城下町弘前の経済状況の困窮があったと言われている。
ねぷたのスポンサーになってきた商人が、従来の人形ねぷたを制作するだけの費用をまかなうことが難しくなってきた状況で、新しいねぷたのスタイルが必要となったのである。
この時代の「ねぷた馬鹿」に課せられた問題は、「安く、手間がかからず、なおかつ美しいねぷたを作る。」という非常に難しいものであったと考えられる。
材料費と手間を減らすには、人形ねぷた制作で最も大変な紙貼りの作業を減らすしかない。
そうなれば、立体的な人形を作るのは無理だ。平面的な絵を描くしかない。
けれども、ただ四角形に書いたのでは、造形美とは言えない角燈籠になってしまう。そんな困難な状況に悩む「ねぷた馬鹿」の傍らには、人形ねぷたの材料の木材と竹材が転がっていたであろう。
この二つの材料で作ることができる角燈籠ではない、絵が貼れる平面をもって構成
される立体とは、「これ如何に?」悩みに悩んだ末にひらめいた。
竹材で曲線を作り弧にして、木材で直線の弦を作り合わせれば、「扇形だ!」こんな風にして扇ねぷたは考案されたのではないだろうか。
あくまでも、ねぷたの作り手としての私の想像にすぎないが。
とにもかくにも、弘前で新たに考案された扇ねぷたは、瞬く間に弘前の主流となった。
それだけ新しいスタイルが渇望されていたのだろう。
また、人形ねぷたに勝るとも劣らない造形美を、扇ねぷたが持ち合わせていたこともその要因であっただろう。
前回から2回に分けて、ねぷたの形状の移り変わりを述べてきた。
簡単に言えば、角燈籠から人形ねぷたに進化し、その後、扇ねぷたが考案されたわけだけれども、こうして見てみると、新奇を好むイメージが強い青森ねぶたが、より伝統的な人形ねぷたというスタイルを貫き、一方で、保守的なイメージが強い弘前ねぷたが、より新しい扇ねぷたを主流にしているという意外な現状が存在しているのだ。次回は、人形ねぷたと扇ねぷたの違いを様々に述べていこうと思う。
参考文献 藤田元太郎 著作『ねぶたの歴史』
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