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第6回 七夕との関係性
 
ねぷたの土台の一番低い部分を「額」と呼ぶが、この額の部分には墨で右から「漢」と書かれるのが一般となっている。
これは古い中国の言葉で、「天の川」のことだ。
現在にも残っている、ねぷたと七夕の関係性を示す証拠だ。
この言葉がいつからねぷたに書かれるようになったかは分からないけれども、前回も紹介した、ねぷた最古の図版資料『奥民図彙』に描かれているねぷたにも、「七祭」といった文字が書かれている。
二百年以上前から書かれていたというわけだ。

では、ねぷたと七夕の間にはいったいどのような関係があるのだろうか。
現在の日本の七夕の習慣は、中国の古い習慣と日本の古代信仰とが合わさってできたものであると考えられている。
その古代信仰が、前回起源として紹介した眠り流しと同じ系統にあることから、ねぷたの燈籠に、七夕と関係のある言葉を書くようになったのではという推測がある。
この日本の七夕の習慣は古くから宮中で行われ、江戸時代に庶民にまで普及した。
七夕の期日はもちろん七月七日、眠り流しの期日は旧暦の七月七日、旧暦が使われていた時代では、この二つの習慣は同じ日に行われていた。

私は、江戸時代の民衆はすでに眠り流しを起源とするねぷたの意味や役割を理解していなかったのではないかと思うのだ。
情報が溢れる現代でも、ねぷたの起源や成り立ちを把握している人は少ないのだから、江戸時代の民衆が祭りの意義を認識し続けていたとは考えにくい。
だとすれば、江戸時代の民衆は祭りを継続はしていたものの、何のための祭りなのかはわかっていなかった。
そこに、都で七夕の風習が流行した。
期日もほぼ同じ。
当時の民衆は失われた意義を七夕の名に求めたのではないだろうか。
また、そこには、少なからず都の文化への憧れの念もあったと思われる。

実は、眠り流しが起源と考えられる祭りに七夕の名が付けられているのは、ねぷただけではない。
日本各地に同様の現象が見られるのだ。

次回からは二回に分けて、ねぷたの形状の移り変わりについて述べていこうと思う。           
    
    参考文献 藤田元太郎氏著作『ねぶたの歴史』
      (毎週水曜日むつ新報に連載中)
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第5回 眠り流し

眠り流しとは、旧暦七月七日に、お盆を迎える準備として、川や海で水浴びや火流しをし、自らの穢れを祓う習慣である。
日本の民族学の祖と言われる柳田国男が、日本各地で行われていた眠り流しを調査し、実態を明らかにした。
この習慣がねぷたの起源であるという学術的な証拠は多い。
まず期日が一致していること。
昭和三十年代までは、津軽地方でも七日にねぷたを川まで運び、火をつけて流したり、水浴びをしたりしていた。
今ではあまり行われなくなったが、言葉は残っている。

津軽地方では七月七日を「なのかび」と呼ぶ。
これを「七日の日」という風に思っている人も多いと思うが、七日の水浴びを示す「七日浴び」という言葉の母音が省略されたものと考えられる。
さらに、ねぷたの最古の資料である、津軽藩の武士、比良野貞彦が天明8年(1788)に書いた『奥民図彙』には、「祢ぶたはながれろまめの葉はとどまれ、いやいやいやよ」という当時のねぷたの囃子言葉が紹介されている。この囃子言葉も日本各地の眠り流しの囃子言葉と非常に類似しているのだ。

そんなこんなで、ねぷたの起源は「眠り流し」というのが、定説となっている。
けれどもこれを知っている人は非常に少ない。
前々回と前回で紹介した田村麻呂と為信の説のほうがはるかに有名である。
ウソが広く知られ、ホントがあまり市民に知られていないという今の状況は、ねぷたの地元として恥ずかしいと思う。

ちなみに、ねぷたの起源に関して、柳田国男と津軽の郷土史家の間で、論争が生じた時期が過去にはあった。
確かに、眠り流しがねぷたに強く影響を与えたもので起源がほかにあるという可能性が無いわけではない。
けれども論証の無い奇説や異説は、ねぷたの意義役割を狂わせてしまう。
ねぷたの謎の部分を空想するのはいいことだと思うけれども、それがねぷたを良い方向へと導くものであってほしいと思う。

次回は、ねぷたと七夕の関係性について述べていく。

      参考文献 藤田元太郎氏著作『ねぶたの歴史』

        (毎週水曜日むつ新報に連載中)



第4回 津軽為信の大燈籠説

 
津軽為信が津軽藩設立のため、豊臣秀吉に謁見した際、京都の盂蘭盆会で二間四方の巨大な燈籠を作らせたことは、歴史上の真実である。
けれども、津軽藩の資料にそれがねぷたの起源になったという記述は見つかっていないのだ。

津軽藩の藩祖である津軽為信が起源であるならば、一つ位江戸時代の書物に記述されてもよさそうなものだ。
それが無いということは、この説が言われるようになった時期は、明治時代に入ってからではないのだろうか。
では、なぜ明治に入ってから為信をねぷたの起源に担ぎ出す必要があったのか。
このなぞを解くヒントは、弘前市でもう一つ良く知られた為信にまつわる話にある。それは、弘前で現在主流となっている扇ねぷたの形状の扇形は、為信の幼名の「扇」に由来するというものだ。
確かに為信の幼名は、「扇」であるらしいのだけれども、扇ねぷたを考案したどこぞの「ねぷた馬鹿」が、はたしてそこまで考えて作っただろうか。

私の推測はこうだ。
廃藩置県により、それまでの城下町の役割を失い、市勢が衰退し始めた当時の弘前では、人形ねぷたを作るだけの財力が市民には無かった。
これが明治時代に弘前で扇ねぷたが考案された要因ではないかと言われている。
こうして生み出された新しいねぷたのスタイルは、瞬く間に弘前の主流となった。
けれども新しいものへの批判はいつの時代も必ずあったはずである。
経費削減が主たる要因であったならば、「ほいどねぷた」と言われてもおかしくはない。(「ほいど」は津軽弁で乞食の意)
扇ねぷたは、正統であるという根拠を必要としていたのだ。
そこに担ぎ出されたのが藩祖為信だったのではないだろうか。
おそらくは開設されたばかりの弘前図書館の津軽藩資料の中から為信の大燈籠と幼名の記述を見つけ、ねぷたの起源に据えたのではないかと考えられる。

田村麻呂もウソ、為信もウソ、ではねぷたの起源のホントは一体何なのか?

その答えは、「眠り流し」という日本に古来から存在した習慣にある。

詳細は次回で。            

参考文献 藤田元太郎氏著作『ねぶたの歴史』

(毎週水曜日むつ新報に連載中)



第3回 坂上田村麻呂伝説


坂上田村麻呂をねぷたの起源とするこの伝説は、彼が征夷大将軍として蝦夷制圧のため、北東北に進軍した際、取り逃がして山の中に隠れてしまった蝦夷軍の大将をおびき出すために、お祭りを催し、何事かと山から出てきた大将を捕らえることに成功したという話で、この時のお祭りがねぷたの起源だというものだ。
けれども、このような田村麻呂を英雄とする伝説は、実は他にもある。
例えば、お隣の南部地方では、獅子舞で敵軍の大将をおびき出したという伝説があるのだ。
この手の話は、室町時代に書かれた田村麻呂を主人公とする御伽草子の『田村草子』から派生したものであるらしい。
この伝説がねぷたの起源として今でも広く知られているのは、青森ねぶた祭りのコンテストの最優秀賞が「田村麻呂賞」と名付けられていたためであろう。
この賞は田村麻呂が津軽地方まで遠征していないという歴史的事実と先住民族への配慮から、平成8年に「ねぶた大賞」に改められた。
けれども、一度市民に広く知られた偽りの起源はそう簡単に消えて無くなるものではない。

そもそも、このような学術的に裏付けの無い伝説が、コンテストの最優秀賞のネーミングにまで採用されたのはなぜであろうか。
おそらく事の起こりは、明治初めのねぷた禁止令にあるのではないかと私は考えている。
時の県知事に当たる権令の菱田重禧はねぷたを「蝦夷の野蛮な習慣である」として禁止令を出した。天皇が権力を持った世において、田村麻呂率いる朝廷軍に制圧された蝦夷の文化が許されるはずは無い。
それならばと、当時の頭の良い「ねぷた馬鹿」がねぷたの起源に田村麻呂を据えた。かくして伝説がまるで真実のように振舞うようになったのではないだろうか。

ところで、私はこの伝説に根本的に不可解な点があると思う。
想像してみてほしい。
あなたが、田村麻呂に追われ命からがら山奥に逃げ込んだ蝦夷の大将だったならば、敵軍のお祭りにつられて山から出てくるだろうか。
私ならば絶対に出てこない。
それが、捕虜が無理矢理やらされた蝦夷側の祭りであったならば、話は別であるが。    
 参考文献 藤田元太郎氏著作『ねぶたの歴史』

(毎週水曜日むつ新報に連載中)


第2回 「ねぷた」と「ねぶた」

「ねぷたとねぶたの違いは何ですか?」という問いに、「ねぷたは弘前、ねぶたは青森」と答える人がほとんどではないだろうか。
今では、当然のことのように思われているが、この「ぷ」と「ぶ」が使い分けられるようになったのは、昭和に入ってからのことなのだ。
なぜ同じ津軽地方の同じ文化に基づいた夏祭りの呼び名を使い分ける必要があったのかはわからない。弘前と青森の微妙な訛りの違いからであろうか。今となっては不明だが、なにか両者の対抗意識がこの使い分けを生んだような気がしてならない。

私はこの連載での表記を「ねぷた」に統一するけれども、これは私が弘前の人間だからではない。ねぷたの起源からたどれば、「ねぷた」とするのが自然だと思うからだ。
ねぷたの起源は次回から4回に分けて書いていくが、その起源から考えれば、ねぷの語源は「眠り」であることは間違いない。
津軽弁で「眠い」は「ねぷたい」と訛る。だから、「ねぷた」という呼び名の方が、正統ではないかと思うのだ。
これは私個人の考えであるが、呼び名をどちらかに統一しなければ、文章がややこしくなってしまうので、どうかご理解頂きたい。

それにしても、この使い分けどうにかならないものだろうか。
確かに、それぞれの地域のこだわりがあって使い分けしているのだろうが、このことが多くの誤解を生じさせている。
最近では、「ねぷた」は扇ねぷたのことで「ねぶた」は人形ねぷたのことだと思っている人が少なくない。扇ねぷたは、現在の弘前の主流になっているだけで、決して、弘前の伝統ではないのだ。(この辺の歴史についても後の回で書く予定である。)

さらに、同じ起源をもった夏祭りがなにやらまったく違う起源をもっているかのように思われている。呼び名が多少違うからといって、隣り合う地域の夏祭りの起源が違うわけはないのだけれども、青森では坂上田村麻呂、弘前では津軽為信を起源だと思っている人が多い。この辺を次回から述べていきたいと考えている。

さて、皆さんはどちらの起源がホントだとお思いだろうか。実はこれ、どちらも
ウソなのである。

      (毎週水曜日むつ新報に連載中)
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