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   "西域の流砂に埋もれる者達を顕せる風の如く"
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   青森市の閑静な住宅街にある、横内陽子さんのアトリエでは



白い布をこだわりの色彩で染め上げて創られた花々が所狭しと飾られています。



花の色合いといい感触といい何とも柔らかで優しい風合いがアトリエに流れています。



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*一寸先は釘 世は情け三歩下がって釘拾い


大工さんは新品を使うのでまずこんなことはない.
これが木工クラフトマンとなると解体した蔵や農家などの梁や大黒柱なんかを好んで使う人も多い。
とても味な材が手にはいるからだ。
で、使うには当然ノコギリを使用する訳で・・・

     下の句見て見ぬふりはできねぇやって事。




第4回 津軽為信の大燈籠説

 
津軽為信が津軽藩設立のため、豊臣秀吉に謁見した際、京都の盂蘭盆会で二間四方の巨大な燈籠を作らせたことは、歴史上の真実である。
けれども、津軽藩の資料にそれがねぷたの起源になったという記述は見つかっていないのだ。

津軽藩の藩祖である津軽為信が起源であるならば、一つ位江戸時代の書物に記述されてもよさそうなものだ。
それが無いということは、この説が言われるようになった時期は、明治時代に入ってからではないのだろうか。
では、なぜ明治に入ってから為信をねぷたの起源に担ぎ出す必要があったのか。
このなぞを解くヒントは、弘前市でもう一つ良く知られた為信にまつわる話にある。それは、弘前で現在主流となっている扇ねぷたの形状の扇形は、為信の幼名の「扇」に由来するというものだ。
確かに為信の幼名は、「扇」であるらしいのだけれども、扇ねぷたを考案したどこぞの「ねぷた馬鹿」が、はたしてそこまで考えて作っただろうか。

私の推測はこうだ。
廃藩置県により、それまでの城下町の役割を失い、市勢が衰退し始めた当時の弘前では、人形ねぷたを作るだけの財力が市民には無かった。
これが明治時代に弘前で扇ねぷたが考案された要因ではないかと言われている。
こうして生み出された新しいねぷたのスタイルは、瞬く間に弘前の主流となった。
けれども新しいものへの批判はいつの時代も必ずあったはずである。
経費削減が主たる要因であったならば、「ほいどねぷた」と言われてもおかしくはない。(「ほいど」は津軽弁で乞食の意)
扇ねぷたは、正統であるという根拠を必要としていたのだ。
そこに担ぎ出されたのが藩祖為信だったのではないだろうか。
おそらくは開設されたばかりの弘前図書館の津軽藩資料の中から為信の大燈籠と幼名の記述を見つけ、ねぷたの起源に据えたのではないかと考えられる。

田村麻呂もウソ、為信もウソ、ではねぷたの起源のホントは一体何なのか?

その答えは、「眠り流し」という日本に古来から存在した習慣にある。

詳細は次回で。            

参考文献 藤田元太郎氏著作『ねぶたの歴史』

(毎週水曜日むつ新報に連載中)



第3回 坂上田村麻呂伝説


坂上田村麻呂をねぷたの起源とするこの伝説は、彼が征夷大将軍として蝦夷制圧のため、北東北に進軍した際、取り逃がして山の中に隠れてしまった蝦夷軍の大将をおびき出すために、お祭りを催し、何事かと山から出てきた大将を捕らえることに成功したという話で、この時のお祭りがねぷたの起源だというものだ。
けれども、このような田村麻呂を英雄とする伝説は、実は他にもある。
例えば、お隣の南部地方では、獅子舞で敵軍の大将をおびき出したという伝説があるのだ。
この手の話は、室町時代に書かれた田村麻呂を主人公とする御伽草子の『田村草子』から派生したものであるらしい。
この伝説がねぷたの起源として今でも広く知られているのは、青森ねぶた祭りのコンテストの最優秀賞が「田村麻呂賞」と名付けられていたためであろう。
この賞は田村麻呂が津軽地方まで遠征していないという歴史的事実と先住民族への配慮から、平成8年に「ねぶた大賞」に改められた。
けれども、一度市民に広く知られた偽りの起源はそう簡単に消えて無くなるものではない。

そもそも、このような学術的に裏付けの無い伝説が、コンテストの最優秀賞のネーミングにまで採用されたのはなぜであろうか。
おそらく事の起こりは、明治初めのねぷた禁止令にあるのではないかと私は考えている。
時の県知事に当たる権令の菱田重禧はねぷたを「蝦夷の野蛮な習慣である」として禁止令を出した。天皇が権力を持った世において、田村麻呂率いる朝廷軍に制圧された蝦夷の文化が許されるはずは無い。
それならばと、当時の頭の良い「ねぷた馬鹿」がねぷたの起源に田村麻呂を据えた。かくして伝説がまるで真実のように振舞うようになったのではないだろうか。

ところで、私はこの伝説に根本的に不可解な点があると思う。
想像してみてほしい。
あなたが、田村麻呂に追われ命からがら山奥に逃げ込んだ蝦夷の大将だったならば、敵軍のお祭りにつられて山から出てくるだろうか。
私ならば絶対に出てこない。
それが、捕虜が無理矢理やらされた蝦夷側の祭りであったならば、話は別であるが。    
 参考文献 藤田元太郎氏著作『ねぶたの歴史』

(毎週水曜日むつ新報に連載中)


一年に一度の鰺ヶ沢ークラフトフェアは雨、150のテントも傘の代わりです。
それでもお客さん達は大勢来てくれています。明日は晴れますように。
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